Roberto Olzer Trio
CELESTE

ロベルト・オルサー・トリオ
チェレステ

Immerse yourself in the bliss that pours down from the sky.
The ultimate in beautiful sound refined by Maestro Stefano Amerio.
Roberto Olzer aims for a higher level.

天空より降り注ぐ至福に浸れ。
名匠Stefano Amerioが磨き上げた究極の美音。
Roberto Olzerは更なる高みを目指す。

Release Date: 12/20/2023
Product Number: JSLP4032–33
Recording: 2016
Format: A Double LP (2LP)

Roberto Olzer: piano
Yuri Goloubev: bass
Mauro Beggio: drum

A-01. Deliverance
A-02. The Old Castle
A-03. Song 6
B-01. G-Spot Tornado/Sleep Dirt
B-02. Parisian Episode VIII
C-01. Piece III
C-02. ... And After
C-03. A Simple Song
D-01. Celeste
D-02. Canova
D-03. Ninja Re Bang Bang (Bonus Track)
D-04. Sakura Nagashi (Bonus Track)

  • Recorded on August 28–30, 2017 at Artesuono Recording Studios, Cavalicco Udine, Italy
    Recorded, mixed and mastered by Stefano Amerio

    Produced by Roberto Olzer

    Project direction and cover artwork by LOUD MINORITY
    Executive producer: Ryoko Sakamoto (disk union)
    Contributor: Hiiragi Kitami

    Licensed by 澤野工房
    ℗2023 Distributed by disk union

    JASRAC
    JSLP4032 R-2371218
    JSLP4033 R-2371219
    JAN 4988044092471

  • Roberto Olzerの、日本で紹介されたものとしては三作目となる作品、“Celeste”。

    タイトルを翻訳すれば、フランス語でもイタリア語でもスペイン語でも、「空」「天」「空色」といったことになる。

    レコードが纏うジャケットの通りの、蒼い空。

    そして、それは透き通っている。

    Olzerの演奏を、真っすぐにイメージさせるもの、と言って良いと思う。

    冒頭の曲が“Deliverance”と題されている。

    これを訳してみると、「救出」だろうか。「救済」とは訳せないものか。それは、あたかも、蒼天から差し伸べられた救いの手のようだから。

    Olzerの音楽に、スピリチュアルなものを感じるかと言えば、それは聴く人によりそれぞれだと思うが、精神性、というものすらを、もはや脱色して向き合いたくなるような、透明な何かがそこにはあるように思う。

    もっと言えば、透明という言葉よりも、「澄明」という言葉を用いたくなる。

    ジャンルを問わず、アーティストという冠で語られるようになり、そして、世の評価に晒され続けるようになると、これは人にもよるのだろうが、非常に窮屈な宿命を背負うことになるだろう。

    それは、何かを発表し続ける限り、常に「進化」というテーマと関わり続ける必要がある、ということだ。

    特に、マスコミに取り上げられることが多く、享受する層が固定しているサブカルチャーの担い手はそういうことになりがちだ、と思う。

    何が問題かというと、評価される場合の軸となること、つまり褒められる材料が「進化」か、そうでなければ「変化」であるということだ。

    一番恐るべき評言は「マンネリ」である。

    アーティストたるもの、自己をなぞるような真似をしたり、繰り返しに陥るようでは、才能が枯渇したと言われるか、百歩譲っても、不誠実(努力不足)との誹りを免れない。

    正直、ものの数でない存在なら、そこを気にする必要はあるまいが、ひとたび世間の口に上り、注目されることになってしまえば、それは必ずついて回る。

    気の毒なことだ。

    特に、ジャンルごとに貼り付いたマスコミ(もしくは、ミニコミ、か)が、その愛好者に向けて発信することが多いポップ、ロックといったところにその傾向、顕著なり。

    確かに、「進化」「変化」を表看板に「シーンを牽引」(紋切型の表現も極まるが)する存在がいることは間違いない。

    思うに、この見方はビートルズがポップ・カルチャーを代表する存在となった頃から始まったのではないか。

    ビートルズがスタジオ・ワークに徹するようになり、ライヴでは再現することの難しい“Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”を発表した頃から。

    優れたアーティスト、あるいは誠実なアーティストは、ひとつの境地に安住せず「変化」し、しかも、ある上昇志向に向けて「進化」するものなのだ、という切り口。

    ジャズにも、もちろんそういうアイコンたちがいた。

    時期ごとに演奏フォーマットを変え、使用楽器を工夫し、リズムを多様化して「変化」したMiles Davisが。

    自己の音楽探求に向かって、一心不乱と見える姿勢で「進化」したJohn Coltraneが。

    しかし、当然に、資質と活動の状況をリンクさせて、それを実現できる存在は限られている。

    だから、どのアーティストにもその尺度を押し当てて、これは優れている、今度はそうでもなかった、という形で語るのは評価のありようとして、単に貧しい、と私は思う。

    商品として、アーティストの作品を売りたいがための宣伝惹句にそれを用いようとするなら、なおのことだ。